テーマ:史跡

江戸の殉教者顕彰碑

東京都港区高輪、品川駅から歩き柘榴坂を上り切った処にあるカトリック高輪教会の敷地内に建てられている江戸の大殉教の殉教者の顕彰碑。キリシタン弾圧によって殉教した約2千人の信者を称えて建てられたとのことです。
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大石良雄外十六人忠烈の跡

吉良邸討ち入り後、大石内蔵助他計17名は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、同屋敷で切腹しました。港区の都営高輪アパート内に切腹の跡とされる場所が残されています。
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大石良雄等自刃ノ跡

吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました。
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品川第三台場

嘉永6年(1853年)米艦隊来航にあたって海防の必要を認めて江戸幕府が築造した台場のひとつ。陣屋や弾薬庫の痕跡がよく残されているとして、無人島と化している第六台場とともに大正15年(1926年)10月20日に「品川台場」として国の史跡に指定されました。 現在は都立公園になっています。
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政所跡

政所は、親王、三位以上の公家の家政を担当する機関。鎌倉幕府では源頼朝が従二位へ昇格したことにより、公文所が政所へと改称されました。鶴岡八幡宮三の鳥居の東側の建物の塀にプレートが張り付けてあります。
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松葉ヶ谷御小庵跡

日蓮上人が建長5年(1253年)から文永8年(1271年)までの18年間、鎌倉における布教伝道の拠点としたとされる場所。日蓮上人が「立正安国論」を著し、また、松葉ヶ谷法難のあった処ともされていますが、この妙法寺の他にも推定地があり、場所の確定はされていないとのことです。
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南面窟

鎌倉の安国論寺境内奥の裏山の山腹にある洞窟。念仏勢力の激しい反発を招いた日蓮上人は、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃されました。その際、白猿に導かれて最初に避難した場所とされるのがこの洞窟とのことです。   
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日郎上人荼毘所

日朗上人は鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人。出家剃髪した場所で荼毘に伏して欲しいとの日朗上人の遺言により、元応2年(1320年)安国論寺にて荼毘に付されました。   
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旗立の松(由比若宮)

前九年の役が終息してから21年後、後三年の役が始まりました。奥州に向かう源義家が鎌倉に立ち寄り、由比若宮に戦勝を祈願しましたが、その際、源義家が旗を立てたとされる松の幹が由比若宮の境内に残されています。
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御棺台石

香川県坂出市に鎮座する高家神社の境内にある六角形の石。崇徳上皇の御棺を八十場から白峯山へ御葬送の途中、高屋付近で天がにわかにかき曇り風雨雷鳴があったとのこと。葬送の列は、御棺をしばらくこの地に安置しましたが、この時、御棺を休めたこの台石に血が流れ出たと伝わっています。    
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松山の津

保元元年(1156年)7月、保元の乱に敗れ、讃岐に配流となったた崇徳上皇は、最初に松山の津というところに着船したと伝えられていて、それがこの地とのこと。ここは現在は海岸線から1.8km程の距離になっていますが、当時は良港で、海岸から府中の国府に至る重要な場所であったそうです。
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雲井御所跡

崇徳上皇が国司庁の近くの鼓岡に移るまでの約3年間を過ごされた場所。上皇が都を懐かしがられ「ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて」と詠まれた歌に因み雲井御所と呼ばれています。なお、この歌は長命寺の柱に書かれたとのことです。
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長命寺跡

讃岐に配流となった崇徳上皇は、讃岐国府の役人であった綾高遠の館を改修して仮の御所とされたそうです。しかし、上皇の仮御所として自邸では不敬があると考えた綾高遠は上皇をすぐ傍の長命寺に移されたと伝えられています。長命寺はその当時、450m四方の境内地もつ大きなお寺だったそうです。
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椀塚

崇徳上皇は讃岐に配流となり、鼓岡の木ノ丸殿で6年間過ごされたのち、長寛2年(1164年)に崩御されました。木ノ丸殿跡から程近い所に上皇がご使用になっていた食器類を埋めたと伝わる塚があり、椀塚と呼ばれています。
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讃岐国府跡

香川県坂出市府中町のかつて讃岐国の国府(国庁)があったとされている所。讃岐国司として任命されこの地を訪れた貴族の中には、学問の神様として知られる菅原道真もいて、道真は当地を詠んだ多くの漢詩を残したほか、旱魃に際しては城山で雨請いを行ったことが知られているそうです。   
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擬古堂

香川県坂出市の鼓岡神社は、崇徳上皇が崩御するまでの6年間を過ごされた木の丸殿のあった場所です。その鼓岡神社の境内にあるこの建物は、大正2年(1913年)崇徳天皇750年大祭を行った際の記念建造物で、木の丸殿を偲ぶために建立されたものとのことです。
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鼓岡神社

香川県坂出市に、ご祭神を崇徳上皇として鎮座する神社。この辺りは昔国司庁があり、文化の中心として栄えたところだったそうです。雲井御所からこの地に移られた崇徳上皇が、長寛2年8月に崩ぜられるまでの6年間、過ごされた場所とのことです。
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内裏泉

崇徳上皇は雲井御所で3年間過ごされたあと、現在の坂出市府中町にある鼓ヶ岡の「木の丸殿」に移られました。崇徳上皇はこの鼓ヶ岡で6年間過ごされましたが、崇徳上皇が鼓ヶ岡に御滞在の時、この泉の水を飲用に使用されたと伝えられていて、現在でも内裏泉といって大切にされているそうです。  
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柳田

崇徳上皇はこの地で殺害されたと地元では伝わっているそうです。その説によると、村人から刺客の知らせを聞いた上皇は綾川方面へ逃げたそうです。当時の綾川沿いには柳が立ち並んでいて、上皇はその根元にあるほこらに隠れましたが、川に上皇の衣が映り刺客に見つかり、この場所で崩御せらたとのことです。
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岩根の桜

香川県坂出市に鎮座する白峰宮の近くにある桜の木の跡。保元の乱で敗れ、讃岐に流された崇徳上皇が雲井御所御滞在の時、しばしお出ましになって御覧あそばされた桜だとのことです。
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八十蘇場の清水

景行天皇の時代に悪魚を退治に向かった讃留霊皇子と80人の勇者が悪魚の毒に苦しみましたが、この泉の水を飲んだところ、たちまち蘇ったので、八十蘇場の清水と呼ばれるようになったとのこと。また、崇徳上皇はこの地で崩御しましたが、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかったとの伝説があります。
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義経鞍掛松

寿永4年(1185年)2月、平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦から大阪峠を越えて讃岐に入り屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。その時大将義経がここで松に鞍をかけ休息したといわれています。
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赤牛崎

源平合戦が行われたときは屋島は島で、簡単には海を渡ることができなかったそうです。そのために、安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を知り屋島へ上陸したと伝わっています。この赤牛崎がその伝説の地とのことです。
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菜切地蔵堂

源平合戦の時、炊事をするのにマナ板がなかったので、弁慶が石地蔵の背で野菜を切って汁を作り、義経以下にさしあげたそうです。その時、義経が「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句をよむと、すかさず弁慶は「それを知りつつ九郎判官」と詠んだといわれ、お地蔵さんの背には刀痕があるとまでいわれています。
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瓜生が丘

屋島にいる平氏を攻めるために源氏が本陣を置いたと伝わる場所。付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。 義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信が運びこまれた場所とのことです。
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長刀泉

源平屋島の合戦の時、この付近は海が近く水がわるかったので源氏の兵は炊事をするのに難儀したそうです。そこで、武蔵坊弁慶が長刀で井戸を掘ったところ、きれいな水が湧き、その水を使ったと伝えられている古井戸です。
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安徳天皇社

寿永2年(1183年)、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に着ました。ここは檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。     
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義経弓流し

源平屋島の合戦の際、遠浅の海岸だったこの場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げている最中に、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家に笑われないために、危険を承知で必死に落とした弓を拾ったそうです。
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船かくし

寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は讃岐国屋島に本拠を置き、勢力の回復を図ろうとしました。そして平家は各所に船だまりを置き、海上からの源氏の攻撃に備えたと伝えられています。この浦は南の小山の陰になり、屋島の本営から見えないことから「船かくし」 の地名が残っているとのことです。          
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扇の的

源平屋島の合戦の際、夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。これを源氏方の那須与一が見事に射落としたという平家物語の名場面の場所です。駒立岩から約55mの距離です。    
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