テーマ:墓所

徳川家康廟所(久能山)

元和2年(1616年)4月17日に亡くなった家康の遺体は、その日のうちに久能山に移されました。廟所は当初は小さな祠でしたが、三代将軍・家光の時に高さ5・5mの石塔が建てられたそうです。石塔は遺命に従い西を向いています。また、家康の遺体が久能山にあるのか、日光にあるのかは不明だそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

エレーヌの碑

エレーヌ・ジュグラリスはフランスの舞踊家で、能の研究の中で「羽衣伝説」を知り、三保の松原に憧れていましたが、訪れることなく35歳の若さでなくなりました。エレーヌの死後、夫が彼女の遺髪を持って三保の松原を訪れ、それに共感した地域住民によりエレーヌの碑が建てられたとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

興意親王墓

興意親王は正親町天皇の孫にあたり誠仁親王の第5王子となる安土桃山・江戸前期の皇族。慶長19年(1614年)、豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居。元和6年(1620年)9月、江戸へ下向し江戸滞在中に急死したとのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

赤穂義士墓地

元禄16年(1703年)2月4日に切腹した赤穂義士46名のうち45名が直ちに泉岳寺に埋葬されました。その後、間新六、寺坂吉右衛門、萱野三平の供養墓が建てられ、合計で48の墓碑が主君浅野内匠頭の墓の傍らに並んでいます。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大石内蔵助の墓

大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂浪士を率いて元禄15年(1702年)12月15日未明、吉良邸討ち入りを果たし、主君の仇を討ちました。そして、元禄16年(1703年)2月4日に細川邸で切腹し、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

長矩公夫人之墓

浅野内匠頭長矩夫人の名は阿久里といい、長矩との間に子には恵まれずに長矩の弟浅野長広(大学)を養子としていました。長矩の殿中抜刀の罪により赤穂藩が改易となると、阿久里は赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られ落飾して瑤泉院と称し夫の菩提を弔いました。墓は夫と同じく泉岳寺にあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

浅野内匠頭長矩の墓

浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝高輪の泉岳寺にあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

昭忠塔

仙台城跡にあるこの塔は、明治10年の西南の役、明治27~28年の日清戦争などの内外の戦争において戦死した東北各地の将兵の死を悼み、慰霊のために明治35年に建てられたもの。塔の頂上にあった鵄(トビ)は東日本大震災の時に落下してしまいましたが、その後修復され、現在は塔の前に設置さています。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

徳川家大奥供養塔(善光寺)

長野市の善光寺境内にある徳川家大奥供養塔。三代将軍家光の夫人本理院、乳母春日局ら、江戸初期の大奥関係者の供養塔とのこと。善光寺如来様は幕府の女性から篤く信仰され、江戸で出開帳が行われた時には、前立御本尊が江戸城に迎え入れられたこともあったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北条義時墓跡

鎌倉の源頼朝の墓から程近く、大江広元などの墓の下にある広場の部分。ここにはかつて、鎌倉幕府2代執権北条義時の墓があった法華堂跡とされているところで、1辺が8.4mの正方形の形をした「三間堂」があったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

源頼朝の墓

源頼朝の墓があるのは、大蔵御所があったとされるところの北側の斜面。元々は、法華堂跡にあったものが島津家により現在地に移されたそうです。石塔には島津家のものである「丸に十の字」の紋が確認されます。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

竹御所墓

鎌倉の妙本寺境内にある竹御所(名は、鞠子あるいは媄子)の墓。竹御所は源頼家の娘で、一幡の同母妹、公暁の異母妹と考えられていて、33歳で亡くなりましたが、源頼朝の最後の直系子孫だったそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

北条政子供養塔

鎌倉の安養院境内にある北条政子の墓とされる供養塔。安養院の正式名は祇園山安養院長楽寺で、安養院は北条政子の法名。長楽寺は元々は政子が頼朝の菩提を弔うために長谷に建立した寺でした。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

良弁尊観石塔

鎌倉の安養院境内の北条政子供養塔の向かって右側にある大きな石塔。長谷にあった長楽寺は焼失し、この地にあった善導寺に統合されましたが、良弁尊観は、その善導寺を建立した僧とのことです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

薩摩屋敷事件戦没者の墓

江戸薩摩藩邸の焼討事件は、慶応3年12月25日(1868年1月19日)に、江戸の三田にある薩摩藩の藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃、放火され焼失した事件のこと。薩摩藩、幕府方の両軍の戦死者を弔ったこの墓は、平成7年に三田からこの鎌倉の妙法寺境内に移されたとのことです。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

大塔宮護良親王墓

鎌倉にある妙法寺の実質的な開山である日叡上人は、建武の新政の騒乱期に征夷大将軍ともなって活躍した大塔宮護良親王の子で、妙法寺の境内に父の墓をつくりました。なお、大塔宮護良親王の正式な墓は、鎌倉市二階堂の理智光寺跡にあります。    
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

頓証寺殿

坂出市の白峰寺境内にある崇徳上皇の御廟所で、鼓岡の御所(木の丸殿)を移築したものと伝わっています。崇徳上皇崩御後、度々都で変事が続いたため、上皇の霊を祀る御廟所が建てられ、速やかに迷いを断ち悟りを開く供養を行うところから「頓証寺」と追号されたそうです。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

白峰御陵

保元の乱で敗れ讃岐の地に配流となった崇徳上皇は、8年後の長寛2年(1164年)8月6日に46歳で鼓岡で崩御されました。上皇のご遺体は白峯山稚児ヶ嶽の頂上で荼毘に付され御陵が築かれました。この御陵は四国で唯一の天皇陵です。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

崇徳天皇姫塚

崇徳上皇が讃岐に配流中、上皇を気付かった綾高遠は、自らの娘である綾の局に上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。やがて、上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられます。この姫塚はその皇女の墓であるとされています。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

菊塚

崇徳上皇が鼓岡木ノ丸御所で過ごされていたときに、国府役人の綾高遠の娘である綾の局との間に皇子と皇女が誕生しました。上皇はこの皇子を顕末と名付けられ、菊の紋をつけて綾高遠に賜り、綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。この皇子の墓が府中町鼓岡の北にあり、菊塚の名称で呼ばれています。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

太夫黒墓

太夫黒は源義経の愛用していた馬。この馬は後白河法皇から義経に賜わったもので、佐藤継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。太夫黒が倒れて後、寺の人は太夫黒を継信の墓の傍らに埋めたと伝わり、墓は佐藤継信の墓の墓域内の右奥にあります。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佐藤継信墓

佐藤継信は、治承4年(1180年)、奥州にいた源義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・佐藤忠信と共に義経に随行しました。そして、義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで義経の身代わりとなって討ち死にてしまいました。
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

神櫛王墓

神櫛王は、「日本書紀」によれば、第12代景行天皇と妃の五十河媛との間に生まれた皇子で、「古事記」では、景行天皇と針間之伊那毘能大郎女との間に生まれた皇子とされています。伝説によると、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去したとのことです。    
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佐藤継信墓

佐藤継信は寿永4年(1185年)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登守教経の強弓により大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち身代わりとなって討死しました。この墓は、寛永20年(1643年)に、初代高松藩主松平頼重公が、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものだそうです。   
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

菊王丸墓

屋島の合戦の際、平能登守教経は佐藤継信を射落とし、教経に仕えていた菊王丸は継信に駆け寄りその首を取ろう としました。しかし逆に、継信の弟忠信に射抜かれ、菊王丸はま もなく息たえたとのこと。これを悲しんだ教経はこの地に菊王丸を葬ったと伝わっています。     
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

こうやぶ遺跡

岡山県岡山市の備中高松城跡から程近い清水宗治公の自刃之跡近くにあ る「こうやぶ遺跡」。家臣の命を助けるために切腹した清水宗治のあとを追い、 何人かの家臣がこの場所で互いに刺し違えて殉死したと伝えられています。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

清水宗治胴塚

天正10年(1582年)6月4日、水上の小舟の上で切腹した清水宗治の 首のない胴体部分の遺体は高松城の本丸に戻ってきました。遺体を迎 えた家臣たちは、その遺体をこの地に手厚く葬ったとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

清水宗治首塚

岡山県岡山市の備中高松城址公園にある清水宗治の首塚。水上の小舟の 上で切腹した清水宗治の首は、秀吉の本陣で首実検された後、その近くに に埋葬されたそうですが、明治期に高松城本丸跡に移されたとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

源実朝公御首塚

源実朝公の御首塚が秦野市の田原ふるさと公園のすぐ近くにあります。 鎌倉で暗殺された源実朝公の御首は行方不明となりましたが、その後発 見され、ここに埋葬されたとのことです。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

金売吉次墓

金売吉次は源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けした とされる伝説的人物。義経が頼朝と不仲になり、奥州へ逃亡する際に吉次 が同行し途中で病死したとされ、栃木県下都賀郡壬生町に墓があります。  
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more